YOGA THERA

”死にたい” って 思わなくったのは

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ふと、思い出しました

 

 

 

「いつも”死にたい”って思っていた」

ということを.

 

 

 

いつの頃だっけな.

 

 

 

 

気軽に使ってしまう”死ぬ”ということば

 

 

 

”もう死んでもいい”ではなくて

”死にたい”って 言葉が頭をよぎる

 

 

 

でも、ふと思った.

死にたいとは「思わなくなった」と.

 

 

なんでかな

 

 

 

思い出すのは小学生から

 

 

幼少期の頃、

特に思い出すのは6歳くらいから小学校にかけて.

 

 

 

小学3、4年生の頃はなんだか覚えている

 

 

 

サッカー少年団に入っていたハマさん.

なんとなく、友達とよく遊んでたっけ.

 

 

 

スーパーファミコン全盛期.

一人でエフゼロ(懐かしい・・w)やるか

マリオカートやるか

友達とゲームするか

 

 

家の前で 缶蹴り的な遊び ポコぺんするか

 

 

 

ともだちと遊べない時は

うちの向いの浄水場があったんだけど

そこの壁に向かって

野球ボール全力投球.

どれだけ遠くに投げられるか

 

 

 

”ただそれだけ”を繰り返してた

 

 

 

楽しくないわけでもない

楽しいわけでもない

 

 

 

何の疑問もなく

ただ壁に向かって

投げていた

 

 

 

誰にみてもらいたかったんだろう

誰かにみてもらいたかったっけな

 

 

 

今考えても、そこに”理由”はないな

全部、後付けになる

 

 

 

 

親はみていた気もしない

気づかなかっただけかもしれないが

 

 

 

親は特に気にしているフリもなかったようだが。

ご飯になったら呼ばれるくらいだろうか

 

 

 

ボール投げをしていたその場所は

建物に囲まれた場所で

壁にボールがあたると音が響きやすいあの空間だった

 

 

 

ボールの音がするから

”まだ遊んでいるのだろう”と安心でもしていたのか

 

 

 

特に親が来ることもなかったように感じる

みていた、のかもしれない。

 

 

 

誰のためにやっていたんだろう

何のためにやっていたんだろう

 

 

 

”自分以外、誰のためでもない” 

 

 

 

そんな気もする

時間があって、なにかしていたかった

その手段が 「ボール投げ・遠投」だった

 

 

 

一人でいると感じる寂しさ

 

 

 

小学校時代は

比較的誰かといることが多かった

 

 

夏休みになると

毎日毎朝ラジオ体操にナガタくんと向かった

 

 

毎朝7時に公園集合

これは小学6年生のこと

 

 

まぁ、真面目だった。

まー、真面目だった。

毎日向かった

毎日体操した

 

 

そもそも ”やらない”選択肢がなかった

 

 

「んなめんどくさいもの、行ってられるか!」

「寝かせておけ!!」

「今日は、やすんじゃおー」

 

 

 

なんて思ったかどうかもわからんが

親に歯向かう選択肢が私にはなかった

 

 

 

歯向かう?たてつく

 

 

 

いや、ほぼしていない

 

 

 

”いい子でいたかった”

のかもしれない

 

 

 

なんとなく”ラジオ体操”をしていた

数十人いるあの公園で列にならび、

夏休み期間毎日、25日間くらいの北海道の短い夏休みを

毎朝、規則正しく生きることをしていた

 

 

 

あのいつもの始まりの音楽とともに・・・

 

 

 

 

「腕を前から大きくあげて、背伸びの運動から。はいっ」

 

 

 

第1・第2と進み、

毎朝の日課が終わる

 

 

 

そのあとは一旦家に帰る.

 

 

 

そして、何をしてたんだろう.

 

 

 

とりあえずテレビをつけていただろうか.

朝ごはんでも食べていたのだろうか.

 

 

 

思い出せない.

 

 

 

普段の通学、

ギリギリの生活ができなかった私は

いつもかなり早めに学校に行っていた

 

 

 

ギリギリに生活するのが嫌だった私は

なるべく早く登校していた

何をするわけでもないのだが、

とりあえず早かった.

 

 

 

 

それは小学校から高校までずっとそうだったように思う.

下手したら専門学校も、かなりの遠方に通っていたが

比較的人より早かった 

 

 

 

”遅刻”は私のなかでは

許されなかった

 

 

 

「人を待たせる」のも嫌だったが

何より「得られるものが得られない」のが嫌だった

 

 

 

手に入れられるものは

手に入れたい

 

 

 

そんな”欲”

それは大人になっても続いていることに気づく

 

 

 

中学生のころ.

 

 

 

なんだか、ふと頭に浮かぶことがあった.

 

 

 

「もう死にたいわ.」

 

 

 

誰かと遊んでいるわけでもない時間.

多くは夜だ.

 

 

 

自分の部屋の机に座っているときのこと

 

 

「死にたい」

 

 

と、いく都度なく考えていた

 

 

 

あれはどんな意味合いで使っていたのだろう

 

と ふと思う.

 

 

 

 

「もう、終わったらいいのに」

・・というよりは

「楽しくない」

「不安だ」

だったろうか

 

「終わったら、楽になるのだろうか・・」

とでも思ったか

 

 

逆に

「もっとなんかワクワクしたい!」

と、心が叫んでいただろうか

その声が「今の生活は終わりにしたい」でも叫んでいたか

 

 

 

学童期の私はなにを求めていたのだろう

 

 

 

暗記だけは得意だったから

考えることなくただ記憶して”瞬時に忘れる”

それで点数はよかったように 思う

よくあれで、点数はとっていたもんだ、と思う

 

 

 

小学校、中学校なんて考えないでも

なんとなく記憶すれば点数取れるテストばっかりだった

田舎の小学校のワタシは

ちょっと頑張ればすぐ上位に入れた

 

 

 

しかし、それではそこそこの進学校にいった私は打ちのめされることになる

 

 

 

高校になって周りん勉強ができる人との差に愕然としたことは

いまも記憶に新しい.

 

 

 

「なんだ、この学力の差は・・・」

 

 

 

“考える”力 が全くないことに

驚きを隠せなかった

 

 

 

ずっと上位を保てていた今までと明らかに違う

味わったことのない雰囲気が1年生でしばらく続き

まったくわからなくなった授業に置いてけぼりになる

 

 

 

なにか「学ぶ」という上での根本が、

ワタシにはまるでなかった

 

 

 

それを見たことで

なにか、ワタシのなかにあった”自己価値観”が総崩れする

 

 

 

なにせ、高校時代の表情は

厳しい顔をしていた

(なにせ写真はほとんど捨てたもので、ここに載せるものがない)

 

 

 

何を考えてたのだろう

ゆっくりと振り返る時間を作ってみることで

また自分がわかり見えることがある

 

 

 

なにせ内側になにもないと心底で思っていた

自己肯定感低めな私は

「誰からも認められたかった」

が深くあることに気づいたのだ

 

 

 

今のワタシが高校時代の私に言えることがあるのだとすれば・・・

 

 

 

「子供の頃の方が楽しいやつなんて、ごくわずか。大人になった方が絶対楽しいからな!」

 

「今はとりあえず辛抱しとき!学びたいなーと思うこともすーっとは学べないだろ?」

 

「卒業しないとやりたい学びにもいけない時代でしょ、そこは!」

 

「学校なんていう小さいコミュニティがお前のすべてかもしれんが、そんなもんこの数年しか続かないコミュニティだから!選びようのない人間関係で問題がおこることなんて当たり前だからな!」

 

「人気関係は選ぶものだ。だから、今はしょうがないからな!」

 

「お前の自己肯定感の低さは、内側にためるだけで外側への発信をなにもしてないからだ。お前は何を表現してきた?」

 

 

 

今のような、自由に学びがオンラインでやれるような時代ではない

 

 

 

学校というところにいくことが

最低限の条件のようで、

いかない、はなかった

 

 

 

今の時代、学校にいくこと自体、

もう時代遅れのようにも感じてきたこの頃

 

 

 

特に大学なんて

残念だがもうほとんどの場合必要がないような価値観になっていくだろう

 

 

 

だって「学びたいもの」がしっかりした場合、

いくのは「学校」ではなく

「教えてくれる講師」を選ぶことであるのは

もう若い子は気づいている

 

 

今、学びはオンラインの時代だ

udemy

teacheble

 

 

 

いまだに進んでない先進国は

ここくらいか

 

 

 

やってる人だけやってる

(とはいえ、それはどこも一緒か)

 

 

 

学校に行って手に入るのは

「〇〇大学を出た」という安心感と外目への影響

そして

一部の頭が固い会社にある「大学卒業以上の学歴」がなければ

就職活動できなくなる企業のためのもの

 

 

それ以外あるだろうか?

 

 

 

大学の役割がもう一つある

 

 

 

「専門分野を学びたい人のための場所」だ

 

 

 

専門家がいて、研究施設がある

 

 

 

なによりもここが素晴らしい

だから、マクロにもっと自分の知らないことを深めるためには

最高の場所になる

 

 

 

自分で深めたい人のための場所が大学

だから、本気の人だけが集まる場所になれば

大学はもっと面白い場所になる

だから、残る学校は相当面白いところ、に変貌せざるを得ない

 

 

 

面白くない学校からつぶれていく

 

 

 

価値がないところからつぶれる

 

 

 

世の中でいえば

当たり前だろうか

 

 

 

あと数年すれば、

若者の全国国民の意識は

奥底ではそうなるんじゃないかな

 

 

 

このまま、ただ大学行ってもなーと、気づくだろう

 

 

 

すべて自分で選んでいる時代だ

 

 

 

だって、テレビでもそうでしょ.

 

 

 

誰も、以前はテレビの番組は選べなかった

でも、今は見たいときに見たいものを見る時代.

 

 

 

毎週待って月曜9時の番組を待つほど

みんなはもう待ってくれない

 

 

 

さっとみて、

さっと終わる

 

 

 

それにしか世の中価値がない

 

 

 

鬼滅の刃なんて最高のマーケティングだなと改めて思う

終わっているものをみんながハマる、なんてね。

 

 

 

話が外れた

 

 

学校に行ったところで

”何にもならない”ことが証明されてくる

 

 

 

なにより自分がそう思っている

 

 

 

あの時間はなんだったのか、と.

無駄ではないが、違うこともできた、と感じる

 

 

 

だったら

高校まで(ほぼ)義務教育的に学び

考え方の基盤を学ぶなかで

 

今後生きていくのに必要な”学び方の学習” クリティカルシンキング

調和精神、日本人が日本人として生まれてきた意味 古事記と日本書紀から学ぶ

震災など起きても食べ物を作ったりできる家庭科能力 サバイバル能力・アウトドア能力

リアルに学ぶ屋外 科学の実験

雨、雲、太陽、月、などの自然科学

語学 英語、日本語、ほか

運動能力を高める、自己免疫を高める方法を学ぶ フィジカルアセスメント

 

 

 

そんな学校なら

喜んでいきたい

 

 

 

自分のやりたいことを深める時間としての学びの時間

生きていることを喜びに変えるための学びの時間

 

 

 

それはそれは有用でこれからの時代を作る

とても大切な役割になるだろう

 

 

そっか・・・

そんな活動をすればいいのかな・・・

 

 

 

「知らないことを知るのは、嬉しいことなんだよ」

 

 

 

そう、小さい頃に知っていたら

またワタシの考え方のすべてが違っただろう

 

 

 

そのためにも「知る」という経験がいかに大事で

たくさんの場面、環境を作ってくれるかを

親に提案することは子供にとって大切な志事だと感じている

 

 

 

「おかーさん!これやってみたい!」

 

 

 

思ったけれど

親がやらせてくれなかった、厳しかった、お金がなかったから

大人になってからやっとやれた、

なんて話はよくある話。

 

 

 

ピアノ

エレクトーン

バレエ

水泳

ダンス・・・

カメラ

絵を描く

陶芸

登山

動物を飼う

生物の収集

他の地に行くこと

 

 

 

 

習い事

 

 

 

子ども自身から”やりたくてやる”のがすべてじゃないことはもちろんだ

 

 

 

しかし、

やり始めるきっかけとして

親の力があった方がいいこともある

 

 

 

だから、ヨガセラに子供が来たら必ずする質問がある

 

 

 

 

「〇〇、楽しい?」

 

 

 

言葉が返ってくるが、

それよりも大切な”反応を見る”

 

 

 

そこに嘘がないか

本心なのか

 

 

 

「心から楽しんでいる」と感じるなら

やらせてよかったなぁと思えるかもしれない

 

 

 

「いきたくない・・・」と言いながらも

そこに「成長する楽しさ」を見いだせているのならば

”いくきっかけを作ってあげられた”と

親も鼻が高いかもしれない

 

 

 

うまく成長できない自分を目の当たりにして

「〇〇ちゃんがいじめるんだ」と嘘をついていきたくない、と駄々をこねることもあるだろう

 

まわりと比較して、成長していない自分に気づいて

「もうやめたい・・」と言ってしまう子もいるだろう

 

 

 

その表面的な言葉の奥には

絶対に別の”意味”が存在する

 

 

 

親からたくさんの趣味活動、習い事をさせてくれたおかげで

自分の身体に何か”根本”とも言える部分が備わっていたのだとしたら

 

 

 

それはそれで親への多大なる感謝しかない

 

 

 

というか、習いたくなかったものも

すべて「大人になったとき」に

何か意味があるようになっている

 

 

 

もし、自分の親が 

いろいろやらせてもらえる状況・環境のなかで

肉体・条件を手に入れたのなら

小さい頃からそれがやれるだろう

 

 

 

ワタシは、やれなくもなかった思うが”言わなかった”

 

 

 

逃げるように「ゲーム」しかしていなかった

 

 

 

”ハマるもの”が ゲームしかなかった

 

 

 

いや、暇だった、からゲームをしていた、だけだろうか

それが一番楽しい、と思い込んでいたのかもしれない

 

 

 

ゲームが心のそこからの楽しんでいるのであればそれもいい

 

 

 

どんな想いでやる”ゲーム”なんだろ、それは.

 

 

 

暇つぶし?

楽しいからやるやつ?

オンライン上で、出会える人を探すため?

結局のところ、人と話すための手段?

 

 

 

どんな目的だろうな

 

 

いつも思い直したいこと

 

 

 

「逃げ道としてそれをしていないか」ということ

 

 

 

「ただ楽しいから」やる趣味と

「発散」としての趣味を混同しないほうがいい

 

 

 

子供に対してであれば、

それは親が気づいてあげたいな

 

 

 

大人なあなた なら

自分で考えなければならない

 

 

 

でも、いつかきっと気づく.

 

 

 

今世じゃないかも、だけど。

 

 

 

こんな長い文章、

最後まで読んでくれて

本当にありがとう。

 

 

 

追伸

今の私の数少ない趣味は

「コーヒーを、昨日よりも丁寧に美味しく淹れること」

世界最高のお味、でした

今後、これ以上ないだろうな・・・

(普通の豆の値段の10倍だったからな・・・笑)

 

 

 

ドラムはもう一度やりたいな、、と思っています

だから、器材は売らずに残しています

 

 

音楽は誰かと一緒にする、のが好きなので、

私と組んでくれる人がいたら

いつでも連絡ください^^

 

 

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この記事を書いた人

白浜芳幸

1982年生まれ札幌在住. 2012年より北海道セラピスト研究会に参加し理事・講師として活動. 理学療法士、作業療法士などの現場で働くプロを指導. 同時に各地で年間50本近くワークショップを開講. 2018年よりコンディショニングスタジオヨガセラ開設. 本来の人間の”生き方”と”考え方”を手に入れるためのツールになる”ボディワーク”と”ヨガ”を各地で伝え続ける.

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