事実と解釈。
講座でもよく話す話。
事実と解釈。
その一つの楽しい例が
昨日のレッスンの中にあった。
とある上半身のレッスンをやった。
お皿や時計をイメージしながら
その形の特徴を利用して
運動をより効果的にしていく
フェルデンクライス特有の、独特なレッスン。
ものを想像するレッスンは
その形の特性を身体に当てはめることで
身体に影響を与えることもメリットとしてあるが、
逆に個人どんなお皿、時計を想像するかによって
人によって影響力が変わる、という点は一つデメリットかもしれない。
しかし、そのデメリットもある意味”メリット”なのだ。
どんな答えが出ようが
どんな結果が出ようが
それも一つのプロセスであって
それがよい、悪いということは言いようがない。
「あなたの”いま”が、誰かの”いま”になるかはわからない。」
繋がる時はあらゆる熟成が進んだその時であって、
いつどうなるかは本当にわからないものだ。
それだけ人間の運動の進化のストーリーにはあらゆる道がある。
道の数だけ、人がいる。
人の数だけ、道がある。
そのレッスンをやったあと、
わたしは
「こうやればいいかなぁ。だとしたらこうか。」
「この角度はやりづらいなぁ。こっちはスムーズやなぁ。」
「あぁ、楽しかったなぁ。こんなことでここまで変わるのかぁ。」
「左右の違いがすげー。反対もやりたいなぁ」
出てきた言葉は”事実”か、すべてが前向きな”解釈”であって、
ネガティブな反応はほとんどなかった。
終わった後のシェアタイムで
発言してきた最初の3名は
「難しかった」
「何を言っているのかわからなかった」
「これはどういうことなのか。」
「わたしはこんなふうに考えたのだが、どれがあっているのか」
「どうやったらいいのか」
と、三連続で、ネガティブな発言だった。
好きに創造せい、と心の中で笑って聞いていた。笑
事実は一つのガイドがあって
その言葉があるだけだ。
その言葉をどう受け取るか
ここまで違うか、と思うと共に
そして自ら発言したい人は
「わからなさ」をシェアしたくなるものなのかもしれない。
すごくよかった
楽しかったよ
こんな不思議があってね
そんな話も最後の最後に一人だけいたのだが
ネガティブは発言をしたくなるのは
人間の一つの能力なのだ。
にしても
”有機的な学びとは”
について、ずっと話してきたにも関わらず
楽しめず
結果、苦しむを選んでいる
ことにはあまり気付けないものなのかもしれない。
苦労することを選択している
それが事実としてそこにありそうだ。
解釈としてその方向にいることで、
もっと結果が出るものも、
ある程度の結果にとどめてしまっている思考パターンにハマるのも
また一つの人間味であろう。
結果、
「いろんな人がいるな。」と思った、という話。
ま、苦労しまくればいいんです。
いつか気づくかもしれないから。
その気持ちはとてもわかります。私もそうでしたから。
(気づかないまま、死ぬのもいいんです。)
”あえて苦しい思いをしている”ということに気付けない自分。
いろんな解釈がある
つまりはその一つの解釈にしばられていることこそが
自分を、他人を苦しめていることになりかねない。
「まぁなんだっていいのさ。どうでもよくはないけどね。」
その気楽さは、これからのより解釈が増える時代においては
必要なのかもしれない。
ある意味、AIが作り出す答えが”正解”のように
導き続けている時代です。
ある意味の正解がより深まることで
排他的になる分野、世界が広がっているように思います。
それもまた世の中の流れか。
あと、
日本語特有の
なんともいえない曖昧な表現が
他国語にはない、ものすごくバリエーションをもっているのだな、
と、改めて認識しているこの数日。
そのだけのパターンを持っている日本語よ。
これを深めないてはないではないか。
日々、楽しく過ごさせてもらっています。
ありがとうございます^^
追伸
5月15日
本格オープン
オイルトリートメントサロン チセ
ヨガセラの上のサロンにて
チセって
アイヌ語で「家」って意味。
心休まる、あなたの帰りたくなるような”おうち”であったらいいな
そんな想いを込めました^^
なんかあらゆる症状に反応があるみたい🎵
ボディワークが目指す動きのガイドの要素をたっぷりいれて
単なる筋肉ほぐしではない、快適な体に導くケアを女性の皆様に届けます^^
予約はこちらから🎵
前の記事へ